音楽ノート (不定期連載)

pour Musique

. 「私にとっての音楽」


物心ついた時には、音楽は生活の中に当たり前に存在していた。ピアノがあって、いつの間にかピアノを習っていた。ラジオがあって、そこから流れる音源を欲しいと思ってCDを手に入れていた。それと一緒に歌っていた。


クラシックは別に特別好きでもなかったし、練習が嫌いで演奏もろくに出来なかったけど、小学生の時には音楽大学へ進路を決めていた。今ならポップス科とかもあるみたいだけど、その頃はクラシックしか無かったからクラシックを学んだ。


私は何も考えていなかった。


とりあえず音楽大学に合格すれば良いと思っていた。

他に何も見つからなかったし、それしか知らなかった。


楽器の練習はしなかったけど、音楽を愛していた。

音楽は何度も私を救ってくれた。

何か具体的なアーティストや曲がではなく、音楽の存在に救われた。


音楽に関することにはどこでも踏み込んでみた。

楽器が好きでも無かったし、何かのジャンルが好きでもなかった。

曲を作ることも好きでもなかったし、作り手である私自身を褒められると音楽の存在が忘れられたようで嫌な気持ちにもなった。


では、私の愛する音楽は何なのか?

少しずつそれを考えて来た。



.「音楽でしかない音楽」


それは分かっていたけど、上手く言葉にできないものだった。


誰のどの曲という訳ではなくて、自分の演奏がそうだという訳でもない。アコースティックの良い音という訳でもなく、フリーインプロヴィゼーションもそうではなく、まったく掴み所のない、ふとどこかに現れてはいつの間にか消えている存在。


何も分からないけど、それに触れた時には身体と精神と外界と全てが美しく調律されたように、そしてそれは竜巻のようにそれらを駆け巡り、私は私でなくなり、ただの存在になる。まるで死や生の瞬間を体験しているような、別次元の快感のような (普通の日常生活をしていては感じとれないもののようにも思っている。現に近頃はそれに触れることが出来ていない)。


それは、音楽の枠組みの中から、または何もないところから、ふいに生まれ人間の中に入り込むのか。人間力や気のような部類の演奏力で音楽に感動する時とはまた別の、光や水や土に力があるような、時空を超えた、自然現象的なもの、その集合体のように感じる。


私はいつからか、それを「音楽でしかない音楽」と呼んでいた。

そして、そうして名前が付いた時から、私はそれ自身になりたくなった。


それ以上に信頼出来るものがなかったとしたら、それとひとつになりたいと思うのはおかしくないでしょう?


私にとって「音楽でしかない音楽」は太陽の光と同じくらい眩しい。

そしてその瞬間、全て真っ白になって、世界も私も何もかも消えた。



.「真に現実的な幻想、現実を作り出す神話」


一般に「現実」というものは、目に見える範囲の、理解、証明出来る範囲の狭い世界のことだとして、それが全てだなんて思うのは、真実からも逃げていると思うし、能動的な生命の可能性も否定していると思う。宇宙の詳細をきちんと分かっていない段階の科学の範囲で「現実」と言うことも、意味は合っていると思うけど、使う言葉としては色々足りなさすぎる。


膨大な歴史の一頁に、なぜか「私」が生まれて死んで行く事になってしまって、その間に何をすべきかと考えた時、「私」は生命の進化の一端末であり、進まなければいけない。それは人間の歴史よりももっと大きな流れの中にある大きな力に誘導されているから。本能と言えばいいのかもしれない。


進んで、進んで、子孫を残すこと。


子供を産みっぱなしで放置するよりは、学んだ技術を弟子に伝達していったりする方が良い事もあるかもしれない。私の場合は、作品のリリースがそうだし、そんな大それたことは出来なくとも、聴いてくれた人の中のたった一人の何かを発展させることが出来る要因の一つになれたら良いなと思う。


木の枝のように。


人は誰でも瞬間瞬間創造している。


生まれて来る幻想を現実逃避的に捉えるのではなくて、もっと真剣に検討したいと思うし、現実を更新していくには物事を神話レベルに落とし込んで行くのが実は近道なのだと思っている。


そういうことで、私は音楽においても物語性を大事にしている。

作る時も、聴く時も。