特殊ジャケット仕様

ライナーノーツ:外間隆史

DAIR003 (dear Air)

2,500yen+税

 Information 


TOWER RECORDS、Amazon.com、その他店舗にて、2015年12月1日に発売開始。

dear Air オンラインショップ、ライブ会場でご購入の方へ特典プレゼント。

『眺め/ Mujika Easel』に関する情報は随時更新いたします。

dear Air

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http://www.dear-air.com

彼女――辰巳加奈――が眺めるもの。


 「庭が欲しい」――

彼女がそう言うとき、既にその視界には彼女の庭が視えているのだろうと僕は思う。

想像するその庭は、とくに<庭>であることを規定しない。

作庭するわけでもなく、ましてや柵をもうけるでもない。

彼女はまた、どこからともなく風や鳥によってはこばれて来る種子の萌芽をも歓迎するだろう。一見、雑然とした配置であっても、それが彼女の庭であり、それをこそ彼女は愛おしむ。

 フランス人の庭師ジル・クレマンが<荒れ地>という語を好んでその著作に使うのを思い出す。


   放棄された土地は<放浪する>植物が好む土地であり、モデルなしでデッサンを描くための新しいページである。*


クレマンはそう言い、道端の、まだ行政の刈り込みが行われていない、言わば荒れ放題に草木が育つ空間をも植物の側からすればそれは<庭>と成り得る<新しいページ>なのだとまで言う。


   時間にゆだねることは、風景にチャンスを与えることだ。それは人間の跡を残しながらも、人間から解放されてもいるような風景を生みだすチャンスである。*


 辰巳さんから今回のアルバムが『眺め』と題されたのをしらされたとき、庭師によるこの一文が想起された。

彼女にとっての<眺め>がすなわち<庭>であるとは言いきれないものの、植物好きの辰巳さんを思えば、ピアノの在るアトリエの床も、ごくかぎられたスペースのベランダもそれは彼女の<眺め>の延長線上に在る<庭>であるとも思えてくる。


 さてMujika Easelとしては通算3枚目となる本作『眺め』は、2003~'04年にかけてつくられたもの(M2, 3, 10)、2013~'14年につくられたもの(M4, 6, 8)、また他の作家の楽曲(M5)やセッションから生まれたもの(M7)、そして新曲(M1, 9)というように、暮らしの中のふと気が向いた時間をつかって(あるいは然るべき時を見計らって)日記のよう書き留められていたものを中心に、中には'12年の帰阪後「ムジカ・イーゼルとくくりもせず日本語詞で書いた」といったものらをあつめた、言わばアンソロジーに近い作品となっている。つまり、アルバムリリースを目的として作曲に集中したわけではなく、半ば抽き出しにしまわれていたそれらの曲をこのタイミングで編んでおくべきだろうという思いから制作が開始された。

 彼女が本作の制作に思い至ったのは今年('15年)に入ってからのこと。

前作『海辺より』(2010年作品)からの5年に及ぶ空白期間に彼女が何を考え、どう暮らしていたのかを知る由もないのだが、何らかのこころの変化が起こった時期――それは今年'15年初頭だと思われる――に幸運にも筆者は立ち会うこととなった。「空白」とは言え何もしていなかったわけではなく、ギタリスト松本智仁(本作「或る雨露」に味わいのあるギターで参加)と共にユニットされた<天体>や、<Lavender Pillow>(初のアルバムを今年リリース)というフォークソンググループでの活動を行いながら、自身が教えるピアノ教室でのこどもたちの成長に喜びを見出していたように窺い知る。しかしながらそこにはMujika Easelとしての活動が欠落していた。

1stアルバム『Love and Realism』は2006年のリリースであり、そこからは既に一時代が経過しているにも関わらずいまだにそのアルバムを自室で聴いているファンが確実に居ることは容易に想像できるし、ここまで寡作のアーティストをそうして聴きつづけられるということは、モードに陥ることのないMujika Easelの音楽性を思えばごく自然なことのようにも思う。と言うのも、一見近寄りがたいその音楽世界がひとたび細胞レベルにまで沁みてしまうと今度は離れられなくなるという魔法を筆者が身を以て経験しているからである。そこから『海辺より』を経てさらなる時間を経過させ『眺め』に至ったことは、私たちリスナーにとっての<空白>が彼女にとっては(クレマンの言う)<新しいページ>への移動を果たすために必要な期間であったととらえて然るべきであろう。


 「ムジカ・イーゼルで作曲するときはクラシック音楽の影響が一切出てこない」。

あるときそう語ってくれた彼女だが、いっぽうではクラシックを教えるピアノ教師でもある。バッハを構造的に読み解いてみたり、好きな作曲家を訊けばフォーレやラヴェルといった名が挙がるにも関わらずそうしたものらの影響が「一切出てこない」ことについて彼女自身は「力量不足」と言い添えるが、そうとも言い切れない。

これまでは数少なかった日本語詞における日本語の素朴な発音のしかたや、唱歌の伴奏にも似たごくシンプルなピアノの和声と素朴なフレージングのそこかしこに、きわめて確固たる彼女だけの<風土>がMujika Easelに色濃く反映されるため、他からの影響が入り込む余地などなかったのだと言い換えられないだろうか。さらに言えばMujika Easelという名称こそ辰巳加奈の<作曲法>を指すのだと考えてもよいだろう。

余談ながら筆者は、Mujika Easelの今後の音楽的方向性を予見する彼女自身のことばも聞いている。具体的な内容をここに記すことは差し控えるが、それは先に述べたこれまでのMujika Easelとクラシック音楽との関係性に相反するものとなっていくようだ。

となれば、この『眺め』がこの時期に発表されることの必然性が際立ってくる。

敷地を規定した上で効率よく植生していくこれまでの造園に対し、クレマンが、植物自らの<チャンス>(=偶発性を装った確信的生命力)を優先させ<動いている庭>と名づけて展開するオペレーションに喩えるなら、Mujika Easelにとってのここはその<動いている庭>の一瞬を切り取る重要な窓枠として機能するのかも知れない。


 それでは彼女の<庭>あるいは独自の<風土>とはどこに在るのか……。

「数年、東京で暮らし、そこから千葉の奥のほうで植物を育てながら暮らしていた」――

彼女は僕にそうおしえてくれた。帰る理由もとくになかったのだが、'11年3月を境に大阪へ引き戻されるかたちで帰ったと言う。いわゆるエコロジスト的な思想性を彼女から見出すことはないが、たいへん熱心な園芸家としての一面を持ち合わせてもいる。千葉の家の庭で丹精した植物たちの写真を眺めながらいまだにそれらを愛おしみ、「いま目の前にある植物たちよりも(むしろその写真に写っている過去の植物に)愛情を注げる」と語るほど、彼女にとって土と共に暮らしたその時間は尊いものだった。

「光と水と土の循環の中間に在る植物と私」――とは、園芸について話してくれたときのことばだが、これこそが彼女の暮らしの大原則ともなっているようだ。

これまでの2作とはうって変わって本作『眺め』には多くの日本語詞による楽曲が収録された。

そのどれもが、ごく小さな、ささやくような、半ば聴き取れないほどの声で歌われる。

"たいせつなことほど小さな声で伝えられる"――

とはよく言われる言説だが、彼女のこのボーカルにはどこか、植物にだけ語りかけている音声のようにも思わせるところがある。

アルバムジャケットの撮影時、叢の葉に手をやる姿を見た。

僕はそれを見て「おや?」と首を傾げた。

ふつうの花好きや植物愛好家らの手つきとは少し違って見えたのだ。

彼女はその葉をずいぶんしっかりと掴んで触っていた。それはまるで、動物の手(前肢?)を取って握手しているようにも見える。

少し乱暴に見えなくもないその触り方に、ささやかなことではあるが僕には「ああ」と納得できるものを感じた。

植物は僕ら人間などよりよほどつよい。多少の風雨に晒されても負けるものではない。

同時に僕は辰巳加奈という女性にも同様のつよさ/しなやかさを感じるのだ。たとえ小さな声で歌われていてもそれが届く人には届く……。そんな信念を彼女には感じるし、またそれは少なくとも僕には届く声なのだ。


'15年現在、彼女は大阪の自室で100種以上にも及ぶサボテンに代表される南米植物を種から栽培している。遠く南米からやってきた種子の発芽をことごとく成功させている。筆者は実際のそれらを目にしたわけではないが、話を聞いて半ば呆れ、発芽したサボテンの写真を見るにつけ拍手したくなる。人がそれほどに何かの対象へ向けて情熱を傾けることは常識を超えた集中力と呆気にとられるほどのスケールを要する。おそらく彼女は、先に述べた<光と水と土の循環>を自ら取り戻そうとしているのであり、そこから生命が生まれてくるその宇宙に見蕩れているのだろう。

限られた空間や生命からひとたび境界線を取り払ったこの宇宙こそが<庭>であり<風土>であり、彼女の<眺め>なのだ。そしてそれらを<新しいページ>として記録したのが本作である。


Nov. 2015  外間隆史 [プロデューサー/アートディレクター]

* …… ジル・クレマン『動いている庭』山内朋樹訳/みすず書房より。

Album credit

2015年12月1日 発売